今年の年賀状には、「初春」と記しました。
祝う言葉は、やはり、ふさわしくない気がして。
たとえば、ご家族の喪中ではなくても。
お友達や、お仕事関係や、ご近所などなど。
身近な方を亡くされて、まだ悲しみの中にいる方が、受け取る可能性も、ありましたし。
それでも、新しい年がきて、時間が重なれば、遅々として進まないことも、やがて少しずつ変化が起こり、それが良いものになってくれるといいなという願いをこめ。
今、自分たちが、元気でいると。
とにもかくにも新しい年を迎えられたと。
親しい人たちに、ささやかな挨拶を送ることで、小さな人とのつながりを大切にしたいと思い。
初春、と記して、賀状を送りました。
どうか、新しい年が、みなさんにとって、穏やかな気持ちで過ごせる時間の多い一年でありますように。
子供たち、食べられるものの幅がずいぶん広がってきています。
入学前に、小麦大豆が解除になった姫は、二年生になった現在、卵・乳ともに、加熱加工品までクリア。
ぼーずも、卵のみ加熱加工品までクリア。
乳も、調子のよいときは加熱加工品が大丈夫なときもあります。
ただし魚は全除去のまま。
で。
姫の給食は、だいぶ楽になりました。
現在、除去しているのは、明らかに卵そのもの・乳製品そのもののが入っているメニューが主です。
カゼインの入ったソーセージは食べるけれど、バターで炒めたソテーは食べないって感じで。
でも、給食のパンは解除しました。
ミルクパン、チーズパンなど、明らかに乳が多い時だけ焼く位になり、去年までの週に2回、卵・乳抜き小麦パンを焼いていたころから比べると、ずいぶん時間が取れるようになりました。
持って行くおかずもずいぶん減りました。
少なくても週に1度、多ければ2〜3度、全部の献立を食べられる日があります。
持って行く日でも、1年生のときは全部献立がNGの日も結構あったのに、今は1品か2品。
数ヶ月に一度、全NGのときもあるかな?と言う感じになりました。
あと、これはアレルギー的なことがあるからでしょうか。
献立から卵・乳製品、かなり省かれているような気がします。
たとえば、フライ類、つなぎにも卵や乳は入っていない場合が多いです。
その分、小麦過多になっている気はします。
やはり、小麦や大豆のアレルギーは、卵や乳に比べると給食作りの負担が大きい状況は変わっていませんね。
ぼーずの方は、やはり出汁まで除去の魚類がネックとなり、現在も全部持ち込んでいます。
が、姫のころに比べると私も肩の力が抜けてきたため、あまり完璧に似せようとしなくなって、面倒なときは好物を入れてごまかすなどしているため、こちらもずいぶん楽になりました。
ただし、家庭ではいまだに卵も牛乳も除去メニューです。
乳製品も卵も、負荷するとき意外は購入しません。
今しばらく、現状維持をしたい、と、思ってしまっているのです。
仙台空港は津波の被害を受けたけど、そこから程近いこのショッピングモールまでは、波は来なかった、といえば、地元の人にはわかっちゃうかな。
名取エアリです。
ほんとに、すぐ近くまで波がきたみたいですが、仙台東部道路があったおかげで被害を受けなかったらしく。
震災後、お店が開いてから、時々出かけています。
自宅からは近くはないですが、休日に出かけるのに不便はない距離なので。
震災前は、仙台空港に飛行機を見に行った帰りに寄ったり、その周辺の公園で遊んでから買い物をして帰ったり、時々たずねて楽しんでいました。
震災後は、再オープンしたあとにエアリにだけ遊びに行っていました。
遊びに?
そう、遊びに。
震災があったからって、日常はなくならないし、津波の被害を見物に行くのはおかしいと思うけど、同じ宮城県民として、多少なりとも沿岸部にお金を落としに行く(と言う言葉は嫌いですが)のって意味があると思うし。
普通に、ショッピングモールに遊びに行ってました。
でも先日たずねたとき、久しぶりに仙台空港の屋上デッキが開いたということだったので、初めて、東部道路の向こう側に渡って、空港の方に車を向けました。
空港までの道の間に、見慣れた建物が、津波を受けて崩れているのが見えました。
道はずいぶん片付けられているのでしょうけれど、その分、集められた瓦礫の山がある場所には息を呑むものがありました。
やっぱり、自分の目で見ると、ショックは大きくて。
宮城県は地元、とは言っても、私の住んでいる場所は沿岸ではありません。
でも、だからこそ、その辺りには遊びに行った思い出の場所もたくさんありました。
子供たちをつれて、飛行機の見える小さな公園に何度も行ったし、大きな海浜緑地公園でぼーずも姫もアスレチックで遊んで走り回った。
名取と言えば、私たちにとってはちょっと遠いからこそ楽しい思い出ばかりが集まった場所だったのです。
結局、空港は駐車場に長い列ができていて入れませんでした。
連休で、訪ねてくる人や出かける人が多かったのか、屋上デッキの再オープンに人が集まったのかはわかりませんでしたが。
そのままエアリに向かう気になれなくて、車で、海浜緑地公園に向かいました。
走るごとに、津波の被害が目に刺さります。
個人の家も、公共の建物も、大きな被害を受けたのが、こんなに時間が経っているのに目で見てはっきりわかりました。
窓ガラスのなくなった建物に、後からかけられたものなのか、カーテンだけが翻っているのが見えました。
海の脇の道に入ると、海岸沿いの防潮林は、折れ、倒れ、枯れて茶色に。
波が削ったのか、抜けた木々が押し流したのか、アスファルトがはがれているところもありました。
そして、懐かしい海浜緑地公園の入り口まで来て、その先の道は、行き止まりになっていました。
まだ、片付けていないのでしょう。
なんで、海浜緑地公園までは道路が片付けられていたのか。
それも、はっきりと目で見てわかりました。
何台ものトラックが、瓦礫を運んできています。
そこは、瓦礫置き場になっていました。
瓦礫、と言う言葉も、嫌いです。
元は、みんな、なにもかも、誰かの大切なものだったのに。
そんなあれこれが、山になって積み上げられていました。
防潮林が被害を受けたためでしょう。
積み上げられた山に、砂が吹き付けられていました。
最初のころに運ばれてきたと思われる山には、吹き付けられた砂に雑草がびっしりと生えていました。
それが、時間の経過を、あの日から過ぎた「半年」を感じさせました。
住んでいた人の思いに比べれば、蚊が刺したほどのショックでしかないとは思うものの。
思い出の場所の様変わりが、痛みとなって胸に残っています。
自分にできることは、何だろう。
何かをしなくては。
何かをしたいのに。
できることは少なくて。
でも何かあるはずで。
震災から半年、生活が元に戻っている場所にいるからこそ、忘れてはいけない、忘れてはいけないと、自分に言い聞かせ、これからも、できることを探していきたいと思っています。
我が家の場合、このあたりは子供の数も多く、またバスで通える幼稚園が近隣に沢山あるため、小学校は同じ学区でも幼稚園はばらばら。
しかも、我が家の場合は、家のごく近所には、姫にもぼーずにも「同い年」の「同性のお友達」はいません。
というわけで、姫の幼稚園時代、子供だけでお友達の家に行くということはありませんでした。
いわゆる「ママ友」が車で子供をつれて行き来する、という形のお友達遊びはありましたが。
それが、小学校に入ると一変。
姫はお友達とは学校で遊ぶ約束をし、習い事のない日は、一緒に公園に行ったり、我が家にお友達を連れてきたり、楽しそうです。
アレっ子ということもあり「お友達の家に行く」のは、本人にとっておやつのことが負担な様で、つれてくるばかりではありますが、2階の子供部屋に上がって勝手に遊んでいるので、親の負担は減りました。
その分、姫がらみの「ママ友」とはずいぶん疎遠になりました。
今も続いているのは、結局、もともと子供を除いても親しくつながっていた人ばかりです。
正直、人付き合いが得意な方ではないので、姫に関して、そこは楽になったなぁと思います。
ぼーずの方は今が「ママ友」付き合いまっさかりではあるのですが、男の子だからでしょうか?姫のときより、ずいぶん楽。
でも、その分、子供同士の付き合いについての悩み、色々増えてきました。
まったくネットにつなげず、まいったもー。
その間は、だんなちゃんが在宅時にスマホを借りてつないだりしてましたけど、もーねー、もー。
なんとか、リカバリできて、復帰でございます。
というわけで、ちょっと日常のことなど。
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